■ βテストの混沌時代 ■

2001年12月17日から始まったβテストから1ヶ月が経ち、βテスターもFFXIの世界に慣れてきたようだった。

β初期では、クエストは実装されているものの、ミッションやハイレベル向けコンテンツは無かった。そのため、多くの人はサポートジョブを取得した後、カンスト(Lv35)までレベル上げをするか、他の初期ジョブを試すか、世界探訪をしていたようである。

※βでは製品版と異なり、「古の預言書」をジュノ周辺の少し強い敵から手に入れ、ジョブマスターに渡すとサポートジョブをゲットできる仕組みだった。

※GMはβ時代は相談相手として、ワールド内に常駐していた

そんな、少し平和なβの世界を面白くしたのが

Named Monster(NM) とレアアイテムの実装である。 ヴァナ・ディールの高レベル地帯に配置されたNMは、高性能アイテムをドロップするため、当時のハイレベルプレイヤーたちを熱狂させた。

NMは24時間間隔でのPOPのため、POP時間になると見学者も含め大勢のプレイヤーがNMを求めて殺到した。ほぼ同時期に多人数との通信手段となる「リンクシェル」も実装されたため、それまでの数人が徒党を組んでいた状態から、「軍団」という概念もできた。

※当時作成された「有名人」リスト。【拡大】 「罰壱」より復元

ハイエンドコンテンツが登場したことで、それまで平和だったFF11に「リンクシェル同士のぶつかり合い」及び「晒し」行為が盛んになった。NMの実装によって良くも悪くもβテストは大いに盛り上がった。結局テスト終了まで抗争は絶えなかった。この流れは製品版に受け継がれていくことになる。


当時βテスター用の公式フォーラムはなく、事実上のメイン掲示板となった2chのネ実板(ネットゲーム実況)もまだ無かったため、βテスターはDQ・FF板内のFF11スレッドか、個人運営の掲示板サイトなどで交流していた。

※上段:11-FF いっしょにTALK!(消滅):掲示板が設置されていた。下段:罰壱(消滅。一部復元):過去ログのまとめやテンプレを保存していたサイト。当時使用されていた用語。

徐々に盛り上がつつあったβテストだったが、開始2ヶ月後にはサーバが統合され、サーバー数が半分になってしまう。

原因はいくつかあり、

(1)βテスト環境を揃えるのは敷居が高かった。
前年にFF10が発売されたこともあり、PS2本体を所持している人は多かったが、FF11はさらに高価な「PS2 BB Unit(ハードディスク+通信カード)」を準備しなければならなかった。BB Unitは店頭で販売されておらず、PSBB対応プロバイダ経由で入手するという特殊な形態で、かつ生産台数も追いついていなかったため、プレイヤー側も準備できる人が少なかったとみられる。

※BB Unit 外付型(16,800円):入手の大変さを伝える当時の記事

(2)FFXIの映像などあまり公開されてこなかったため、イメージが湧きにくい状態だった。
βテストの内容はテスターが開示することは許されず、情報のほとんどは公式サイトと雑誌記事のみに限られため、FFシリーズで初めてオンライン化されたFF11に二の足を踏む人も多かったとみられる。

(1)については正式サービス開始後も暫くの間続いたが、(2)については「ライブラ」の登場により、少し状況が変わることになる。

「ライブラ(Live Vana'diel)」はFFXIのサーバの様子をライブストリーミング配信するコンテンツであり、メンテナンス時間を除き、公式サイトから24時間発信された。

βサーバの様子がリアルタイムで見れるだけではなく

製品版の紹介や

開発ルームの紹介などが次々と公開されたことにより、徐々にFF11に興味を持つ人が増えていったとみられる。

正式サービス開始が5/16に決定された後も、βテストでは公式イベントのテストなどが行われた。同時接続数こそ1万人に満たなかったものの、盛況のうちにβテストは2002/4/26に終了した。

※初の公式イベント「コナーの手紙」。

※FFXI βテスト 最後の日

■ 悪夢の5/16 ■

サービス開始時間が5/16の12時に決定し、後はサービス開始を待つだけとなったFF11。

※初期のFFXI公式サイト

正式版に向けて5,000人同時接続に耐えられるサーバを20ワールド準備して、プレイヤー10万人規模受け入れ可能な体制が整ったFF11だったが、サービス開始直後いきなり大規模なトラブルが発生してしまう。

FFXIの初週売上は63,958本(ファミ通調べ)であり、上限の10万人を下回っていたにもかかわらず、ゲームにログインする際にアクセスする「認証サーバ」が膨大なアクセス量に耐えられなくなり、ダウン。関連してFF11公式サイトやサポートセンターもパンク状態で、スクウェアも障害情報をスクウェア(当時)公式サイトに直接掲載するなど対応に追われた。

単にプレイ出来ないだけでなく、課金方法の一つであったWebMoneyコード登録時にが重複課金されてしまった人、接続以前にBB Unit争奪戦に敗北し、BB Unitが当日に配送されなかった人などを巻き込み、この日出来たばかりの、2ch FF11向け板 「ネットゲーム実況板」は死屍累々となった。

サービス開始後数日は以下のような状況となった。

■5/16
12:00 正式サービス開始

直後~夜間 レジストレーションコードやWebMoney登録処理が滞るようになる。ほとんどの人がワールドサーバにログインできない状態が続く。

25:00頃 各ワールド同時接続数100~200名程度まで増えるが、大半は接続できない状態。ワールドサーバが緊急メンテナンスのため全サーバ停止。

■5/17
15:00 一時復活するが、状況は改善されず、5/17の運営を停止。5/18 AM9時に再開するとのアナウンス。

■5/18
8:00 WebMoney多重課金に対する返金対応をアナウンス。
10:30 予定時間を過ぎたが復旧できず、18時まで延長するというアナウンス。 

その後も断続的にメンテナンスが行われ、ひとまず安定したのはサービス開始から3日経った19日の夜であった。

18日の朝刊(全国紙)各紙の広告欄には、社長名義の謝罪広告が掲載されるなど、スクウェア内部でも「悪夢」と評されるほどのトラブルであった。

 ■ 冒険のはじまり ■

悪夢の3日間を過ぎると、安定してログインできるようになり、本格的に冒険がスタートした。

※最初期のログイン画面

多くの人はまず、友だちがいるサーバに行くために、「WP(ワールドパス)掲示板」などで余ったワールドパスを貰い、次々に旅立っていった。

FFXIではキャラ作成時にログインサーバを選べなかった(ランダムで決定)ため、指定のサーバにログインするためには、既にそのサーバにいるプレイヤーからコード(ワールドパス)を貰う必要があった。2007年以降、サーバが選択できるようになり、ワールドパス制度は役割を終えた。

雑誌「電撃PS2」を母体とするリンクシェル「電撃の旅団」も、このころ1つのサーバに集結し、製品版での活動を開始した。電撃の旅団は「電撃PlayStation」が2020年3月28日の定期刊行の停止以降も存続している。

ログインしたプレイヤーたちは、各国に分散した友達にリンクシェルを手渡しするため、船や歩きで三国を旅していた。インビジやスニークも無かった時代、目的地まであと少し、というところで倒されたプレイヤーも多かっただろう。β版には無く、製品版で実装されたジュノに、危険を冒して旅してみる人も多かった。

このようにして「旅の仲間」は次第に揃っていった。

 ■ サポートジョブ取得の悪夢 ■

サービス開始から数週間経ち、プレイヤーが操作に慣れてきた頃、 「成人になるための儀式」と言わんばかりの厳しい試練が立ちはだかる。

5月末から6月中旬にかけて、サポートジョブ取得条件を満たしたLv18前後のプレイヤーが急増し、アイテム入手の面でサポートジョブ取得が困難になっていた。

特に、セルビナでクエストを受けてしまった人は深刻で、夜中に少量あらわれるグールを、多くの競争者と共に釣り、倒し、ドロップするかわからない「呪われたサレコウベ」を入手しなければならなかった。

たとえドロップしたとしても、ソロで挑める敵ではなかったため、必然的にPTを組まねばならず、結果、ロットに負けてしまう悲劇も多かった。

※2002年6月中旬のバルクルム砂丘

※スケイル装備にダブレットはお馴染み

※同時期、セルビナでPT募集をしている人たちの姿。

やっとの思いでバルクルム砂丘、あるいはブブリムを卒業すると 少し先行していた友だちはチョコボを取っている頃。

羨望の眼差しでチョコボを見ているうちに、心は三国から離れ、もうジュノに向いている。

※2002年6月中旬のダボイ

一方その頃、各地の獣人拠点では無謀な突撃が行われていた。いったい奥には何があるのか?経験値ロストを恐れず、夜な夜な突撃するPTがあらわれる。

命からがらジュノに到達すると待っていたのは

※戦士時代

バタリア虎時代の幕開けである。多くのプレイヤーがバタリアの洞穴に籠り、虎やオークを釣り、レベル上げを行なっていた。 バタリアでトラ狩りが流行った理由は

・狩場がジュノ上層から近く、安定した供給量がある
・敵の強さが丁度良い
・非常時には数秒でエルディーム古墳にエリアチェンジができる

があったといえる。
この時期から安定した狩場が次々に開発され、エスカレーター式にLv50への道が開かれていった。

 ■ 7・2パッチ騒動 ■

そんな中、7/2に適用されたパッチは「自分より高レベルの敵に対して、物理攻撃の極端に命中率が下がる」という、大幅な下方修正パッチだった。

大幅な修正になったため、ユーザーへのショックが大きく、最終的には修正内容に対して不支持の意見が集中した。その反面、難易度が上がった、という面で少数ではあるが支持する動きも見られた。

パッチの内容が本格的な議論になったのは初めてのことであり、「弱体パッチ」という言葉もこの頃から使われるようになってきた。

結局、批判が集中したことにより、1週間後に修正パッチが適用され事態は沈静化した。

 ■ 人・人・人! ■

一時の嫌なムードをかき消すかのように、6月末から8月にかけては「ユーザーによる、さまざまな出来事」が各地で見られた。

「FF11のロールプレイの先駆け」となったと言われるのがカーバンクルサーバの「ハイパーバトルサイボーグ」。

正体は未だに不明だが、後日、謎のヒーロー集団として話題となった。

パルブロ鉱山に「謎の裸集団」が出没するようになったのもこの頃。 この裸集団は俗に言う、金策「ミスリルマラソン」の参加者である。

バストゥークで「つるはし」を購入し、鉱山で「鉱山の砂利」を入手。鉱山内の精製機で「ミスリルの砂粒」に精製した後、バストゥークに戻り店売りするという内容だった。

時給はおよそ1万ギルほどで、取り合いもなく、当時の金策としては破格の稼ぎだったため、Lv上げそっちのけで全国から人が集結した。

掘削時に出現するメッセージ、

「(ざく、ざく、ざく、ざく)」

でログが埋めつくされた人も多いだろう。

※砂利を掘るための「つるはし」を売っていた「ボイツのなんでも屋」は大繁盛。

バストゥークではもう一つ、マラソンがあった。

繰り返し可能クエスト「豊かな食卓」で金策&名声UPを狙って行われた、通称「オニオンマラソン」。バストゥーク商業区の民家と、エリアチェンジのため鉱山区を何度も往復するプレーヤーをよく見かけただろう。

また、7/19の20時から25時にかけて、製品版初の公式イベント「モーグリ族 慰安旅行のハプニング」が実施された。

世界各地で迷子になった21匹のMoogleを探して話しかけるというイベントで、見つけた数に応じてモグベルト(ゴールド、シルバー、ブロンズ)を手に入れることができた。

当時はテレポが実装される前で、飛空艇を使えるプレーヤーも少なく、移動手段はチョコボ、船、徒歩に限られた。そのため、Moogleを探すために船を利用する人がいつもより大幅に増え、マウラ-セルビナ間はタコや海賊が襲ってきた時よりもはるかに賑やかになった。

さらに、7/29には初の大規模なユーザーイベント「ウィンダス盆踊り」が各ワールドで開催された。

盆踊りといっても花火も音楽も無く、ウィンダス森の区で魔法や歌、emoteなどを集団で行う素朴なものだったが、300人を超える多くの人を集めた。

翌年から公式でも夏祭りイベントが開催されることになった。

拡張ディスクの概念がなかった2002年初期。最後の地とされていたズヴァール城「王の間」に到達しようとLv20~40台のプレイヤーを中心とした、大連合が結集した。「ズヴァール城突撃」と名付けられたこのユーザイベントは、ワールドを超えた大規模なイベントになり、多いワールドで80名を集め、20ワールド総勢約1,000名の命知らずたちが北の地を目指してサンドリアを出発した。

王の間に辿りつけたワールドもあれば、ズヴァール城外郭で無念にも全滅したワールドもあり結果は様々であったが、この「挑戦系」のイベントは、後にLv1マラソンイベントなどに引き継がれていった。 (参考資料)

■ チョコボ・エキストラジョブを求めて ■

本格的な夏がやって来る頃になると、初期プレイヤーのほとんどがチョコボ、エキストラジョブ(初期6ジョブ以外のジョブの正式名)取得に奔走していた。

※「傷ついたチョコボ」を見守るプレイヤーの姿

※テレポがなかった時代、どこへ行くにもチョコボは必要。

チョコボはクエストアイテムである「ゴゼビの野草」が多少ドロップしにくいものの、時間をかければ入手することはできた。

一方、エキストラジョブ取得は当時の一部プレイヤーにとっては、サポートジョブ取得に続く難関だったに違いない。

その中で「最難関」といわれたナイト取得クエスト「騎士登用試験」。

ダボイの奥地にある古井戸を調べる必要があるのだが、目的地に至る細い水路には、アクティブな魚やオークが大勢ひしめいていた。

例えばこんな話がある。

ある日、先にナイトになった友だちに案内してもらい、ダボイ奥地に向かっていた。すると突然、友だちはインビンシブルをして、敵集団の真ん中に突っ込んでいく。当時はインビジやスニークは無かった。

「そのまま井戸へ!」

インビジもスニークもない頃、「騎士登用試験」ほとんどの場合、道半ばにして全滅があたりまえで、成功しても生きては帰れず、片道切符だったのである。

ナイトの彼は、特に何も言わず、後輩のために自ら囮になっていった。「騎士登用試験」はナイトの生き様を伝えるためにあったクエストだったのかもしれない。

獣使い取得クエストでは、クフィムの強敵、クラーケンが病気を治す花の前に立ち塞がる。

一瞬の戸惑の後に、先んじて飛び込んでいった勇気ある女性エルヴァーンは案の定、クラーケンに気づかれてしまった。

「大丈夫ですか!?」『まだ生きてます~!このまま逃げ切ってみせます!』

そう言ってクフィムを走り抜けたエルヴァーンは、後の難関ミッションなどでも活躍したに違いない。

・・・・・・

エキストラジョブを取得した後には、早速ジョブチェンジがしたくなるもの。

※2002年8月頃まで存在したジョブチェンジ画面 (拡大)

これはよく出回っている画像だが、初期の頃にのみ存在した「ジョブチェンジ専用画面」である。モグハウスでジョブチェンジを選択すると、画面が暗転し、専用画面に移る。専用画面ではキャラ作成時にも使用されているハイポリゴンのキャラクターが表示され、拡大や回転などで自分のキャラクターを閲覧することができた。

しかし、ジョブチェンジのたびに暗転して時間が掛かるという点や、FF11から落ちてしまうという不具合があったため、削除されてしまった。

■ 大都会ジュノ ■

エキストラジョブを取り終え、ドラゴンミッション終えると、いよいよ本格的にジュノに定住することになる。

※2002年のドラゴン戦

初期のジュノは競売へのアクセスが良い、下層に人が集まり始めた頃だった。寝バザーも多く、競売を利用する人、噴水前でシャウトでPT募集をする人などキャラクターがいつまで経っても表示できないほど、活気あふれる状態だった。

※ジュノ下層 競売前

※同 2002年10月頃

金策やLv上げに励んでいた人も多かっただろう。

※この時期、各地で見られた「金太郎装備」(王国従士制式鎖帷子)

最先端の装備だけでなく、「サブリガ愛好家たち」もジュノに集まった。後のヴァナ・ディール芸人文化に繋がっていく、パフォーマーやロールプレイヤーも各地で現れた。

ガルカは祭以外でもネタキャラとして使われていたフシがある

※町中で急に毒死する人(自分で毒を飲む)も何故か多かった。

後年、あまりにジュノ下層に人が集まりすぎたために、プレイヤー分散化策が取られ、ジュノ下層に集中することはなくなったものの、2002年プレイヤーの第二の故郷といえば「ジュノ下層」ではないだろうか。

※2002年イベント第3弾「月下に踊る白い影を追え!」で、高速で移動する兎を追いかける人々。(バタリア)

■ 狩場開拓の時代(あるいは骨骨ファンタジーにおける連携「核熱」の重要性について) ■

連携相関図 (拡大)

この連携相関図は2002年に使用されていたものである。様々なパターンがあるが、当時の人々が気にしていた部分はほとんど「溶解」「核熱」だけだろう。TPが溜まりにくかった両手武器は敬遠され、あたらなかった物理WSよりも、必中の属性WSが重視されていた時代に、「レッドロータス」-「コンボ」が引き起こす核熱ダメージは、 誰の目から見ても魅力的だった。

初期のLv上げは、狩場が少なく必然的に取り合いになる、連戦できるだけの維持力がない(ヒーリングが主な回復手段だった)、などの理由により、強いモンスターをじっくり倒すスタイルが一般的だった。

※エルディーム古墳で沸き待ちをする日々

特に人気となった「骨」は、数が多く、強さもそれなりで、様々なLv帯に分布していたため、2002年夏から秋にかけ、骨が狩場の主役として祭り上げられた。「骨骨ファンタジー」の幕開けである。

多くのプレイヤーがこの時期、ガルレージュ要塞、エルディーム古墳、ベヒーモスの縄張り、など、常に骨が出現するエリアに引き寄せられていった。

片手武器を得意とする、戦士、ナイト、そして格闘のモンクはLv上げPTの花形となり、暗黒騎士などは誘われないだけでなく、片手剣を強要される不遇の時代をおくった。

以下は余談となるが、骨はリンクしない性質が知識として広まっていなかったため、「骨はケアルで釣るとリンクしない」というデマもよく聞かれた。

また、プレイヤーは連携時に自分のTPが蓄積したかどうかをPTメンバーに伝える必要があったが、代名詞<tp>が実装されていなかったため、「tぽk(TPOK)」「@」などと、手打ちをして 準備が完了した旨を伝えていた。

■ 庶民の金策 ■

高レベルになると、食事や装備品を揃えるのにお金がかかるようになり、度重なる支出がプレイヤーを悩ませた。いよいよ金欠になった頃、プレイヤーたちはLv上げを中断して各地に金策に向かった。 夏頃までは前出のオニオン・ミスリルマラソンがブームだったが、秋ごろから採取や宝箱が実装されて金策の幅が広がった。

※トラの牙集め

最も手軽だったのは「黒虎の牙」に代表される、モンスタードロップの素材集めだろう。サンドリアで3本2,100ギルで交換できるクエストがあり、換金の手軽さから黒虎の牙を集めたプレイヤーも多かった。多くのプレイヤーの称号が一時期「ファング」(上記クエストのクリア称号)になっていた。

※NM狩りの例(ベドーでのホーリーファイアル争奪戦の様子)

一方、一攫千金を狙ってNM取り合いをしていたプレイヤーも多かった。代表的なNMはリーピングブーツを落とす「Leaping Lizzy」(南グスタベルグ)、皇帝羽虫の髪飾りを落とす「Valkurm Emperor」(バルクルム砂丘)。NM自体もさほど強くはなく、素材集めの時給が1~2万ギル程度だった頃に、数万~数十万ギルを手にすることができたNM狩りは、庶民の夢のある金策だった。

さらに、シーフには「箱開け」の金策があった。当時最も有名だったのはオズトロヤ城宝箱に配置されていた「アストラルリング」。こちらも数万~数十万ギルで取引されていたために、オズトロヤ城に何日も篭っていたシーフも多かった。

■ 個人サイトの広がり ■

サービス開始直後、攻略・日記・LS交流サイトを中心に一斉に個人サイトが開設されていった。当時はブログが流行になる前だったため、個人サイトは、自分でgeocitiesなどのフリースペースを借り、htmlを記述して作成するサイトが主流だった。

初期のサイトは掲示板からの情報まとめが中心か、特定の分野に特化したサイトが多く、総合情報サイトは少なかった。総合情報サイトeLeMeNも本格始動したのは2003年1月以降である。

以下は主に2002年に開設された代表的なサイトである。

※初期eLeMeN(FF11) (2013年ころまで運営)

※攻略情報系サイトの例(Haunt of the destitute 2004年ジラート中期頃まで運営。)

※ルガメッシュ戦記(スケジュールカレンダーや日記など。2011年の日記を最後に更新停止状態。)

※ウィンダスの仲間たち(アトルガン頃まで更新されていた。現在は用語辞典が存続。)

※えふめも(掲示板情報まとめ中心。長年運営されていたが、2012年9月をもってサイト廃止をアナウンス。)

この他にも数多くのサイトが2002年中に開設された。

その後、攻略・情報サイトは次第に淘汰されていき、専門サイトを除くとほとんどがwikiに統合された。日記はサイト形式から、ブログへ移行し、個性的なサイトは徐々に消えていった。現在、個人間の交流はSNSが主流になったため、htmlベースの個人サイトの多くが姿を消した。

■ 飛空艇を目指して ■

秋が深まる頃、プレイヤーのレベルも40を超えて、飛空艇パスに手が届く時期になった。

※2002年秋ごろのデルクフ下層

デルクフやオズトロヤなど、難易度の高いダンジョンを数時間かけて回るツアーのシャウトが盛んであった。

テレポがLv50制限のためメイン白魔道士限定だった時代、チョコボ以外の移動手段として飛空艇は重宝された。

※サンドリアでの待合風景

各国の飛空艇乗り場はいつも賑わっていた。

■ 闇の王 討伐とジラートの幻影 ■

飛空艇乗り場に人が増えてきた11月、ついに闇の王が討伐されたというニュースが公式サイトよりもたらされた。

※ヴァナ・ディールトリビューン Vol.06 より

初期Lv50キャップでは討伐できなかった闇の王が、9月にLv55キャップに引き上げられたことにより、ついにShivaサーバで初めての討伐者が現れたのだ。さらに、11月末にはLv60キャップに引き上げられ、難易度が緩和したことで闇の王が実質的に一般開放された。ただし、そこに至るまでのLv上げの道のりは長かったので、一般のプレイヤーが倒せるようになったのは2003年に入ってからである。

11月末、闇の王も討伐され、1年も経たずに終わりが見えかけていたFFXIに、大きなニュースが飛び込んできた。

初の拡張ディスク「ジラートの幻影」の発表である。
多数の新大陸、新ジョブ、召喚獣実装と、FF11本編が一段落しかけていたプレイヤーたちを大いに熱狂させた。

■ ヴァナ・ディール ウェディング ■

ゲームシステム以外にも11月にはコミュニティに大きな動きがあった。

※2003年5月頃

公式ウェディングサポートシステムが開始されたことにより、FF11内で出会ったプレーヤーたちが結婚する時代が来たのだ。

※2005年頃の公式ウェディングサポート 当選倍率

ジラート、プロマシア時代をピークに「ヴァナ婚」がブームとなる。一時期は予約が3ヶ月先まで埋まっている状態だった。

「ヴァナ婚」だけに留まらず、FFXIで出会って、そのまま現実でも結婚したプレイヤーは少なくなかった。

また、公式ウェディングサポートは専用のサポートスタッフが「神父」として立ち会い、GMを除くとゲーム内でプレイヤーとオフィシャルの唯一のコミュニケーションの場でもあった。

2009年、ウェディング人口の減少にともなってサポートスタッフが立ち会う公式スタイルは廃止され、プレイヤーが自主的に実施する形に変更された。

■ 2002年のおわり ■

2002年の年末になると、Windows版(11月発売)組も加わり、ワールドはさらに活気を増した。似たような装備であふれかえっていたジュノも、ジョブやLv帯がばらけたことで、様々な格好のプレーヤーが見られるようになった。

すでに闇の王を討伐した先行プレーヤーたちは、11月に実装されたアーティファクトをも入手し後進のプレイヤーから羨望の眼差しで見られていた。

年末といえばクリスマス、最近のFF11では「星芒祭」を思い浮かべるが、クリスマスイベントが開始されたのは2003年、星芒祭は2004年からであり、2002年はイベントは実施されなかった。

その代わり・・・

各国にはこのような「ツリー?」が配置された。トレントにイルミネーションを足した個性的なクリスマスツリー?である。

正面から見ると、クリスマスというか、その不気味さがなんともいえない気分にさせてくれる。

そんな粗削りだったFF11も、サービス開始のトラブルを乗り越え、7ヶ月半。なんとか最初の年末を迎えることができた。

※2002年12月31日 23時52分のShivaサーバ「ル・ルデの庭」の様子

大晦日には公式イベントがあったわけではないが、プレイヤーたちが自然とジュノに集い、いつの間にか人間の輪ができていた。

多くの人はヴァナ・ディールでできた友だちとともに、初の年明けを迎えるヴァナ・ディールを祝福するかのように、それぞれの思いのたけを叫び合っていた。

年が明け、2003年がはじまり、除夜の鐘が鳴り響く頃、鏡餅役?の「Ake」「Ome」と世界各地に「幸福の羊」が出現した。大晦日の興奮をそのままに、プレーヤーたちは幸運の羊を追ってジュノから世界各地に散らばっていった。

多くのプレーヤーは大羊を追いながら、まだ見ぬ闇の王やジラートへ思いを馳せていたことだろう。様々な思い出を残して、ファイナルファンタジーXIの2002年は幕を閉じた。

(おわり)

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